昭和43年7月17日 朝の御理解



 これではいけんと言いながら、ひとつの信心の殻の中に閉じ込められたように、一歩も出られんで苦しんでおるようなところにおかげが停滞しておる。生き生きとしたごヒレイが頂けないと。そこに最近、連合会の教師会が、二十何ヶ所かの教会が集まってそのことの教義会があっております。それにもやはり、どうすればよいかということは分からん、ね。
 けれどもこれではいけないというところまでは分かっておるというのである、ね。そこで、まあ結論的にですね、出ておることが、先生方のレポートが出ておりますのが昨日、頂きましてね、見せて頂いたんですけれども、結局、甘木地区と久留米地区ですから、もう甘木関係と久留米関係と、中に博多関係が1、2あるだけですよね。その教会の先生方が集まって、こっから若先生が出席しました。
 それにあの、結局、久留米の初代はどうあられたかと、甘木の初代はどういうふうにこれを見られたかと。または行じられたかということになったんだそうです。これはもう間違いがないですね、ここんところに焦点が置かれりゃ間違いがない、ね。あれだけの生き生きとしたごヒレイを輝かされた先生方ですから、ね。これではいけん、これではいけんということを分かったというところに、これからの、まあ進歩していくまあ道はこれから打開されようとしておる。
 そのために、そんなら甘木の初代はどう信心されたか、久留米の初代石橋松次郎先生はどう信心に取り組まれたかといったようなことが、問題にこれからなるようですけれども、さあ、どっこい実際に先生方がおられないのですからね、言うておられること、書いて残しておられるもの、なるほど、沢山ございます、ね。
 ですから本当言うたらそれよりももっともっとです、ね、その大元であるところの今日の御理解です、ね。この方金光大神あって神は世に出たと仰る、ね。天地金乃神のおかげをこの方、金光大神あって、受けられるようになり、神もそのおかげで世に出られるようになり、皆もこのようにおかげが受けられるようになったと言うておられるのですから、金光大神の、実はあられ方というものをですね、もっと本気に、どうせどちらにしたところで甘木もおられんのだし、久留米もおられんのだから、ね。
 なら、おられんもんならもっともっと本当なことであるところの金光大神に基づくことが私は本当だと私は思うんです。それをですね、少しばかり本当なことであってもですね、それがやはり本当なことであれば、そこからおかげが頂けれるです。ですから、まあ私は甘木やら久留米やらが少しばっかり本当なことをしてござったというふうには思いませんけれども。けれども金光大神の前には、やはり本当に少しばかりであったと私は思うです。
 ですから私は、先生方はどうして、そういうところに気が付からないかと、私それ読みながら思ったんです、ね。なるほど、あれだけのごヒレイを頂かれた。なるほどあれだけの沢山の人が助かった。その人に直に先生、人が助かるなら助かるということの秘訣はどこにありますかと、お尋ねすればまあ分かるかもしれん。また、分からんかもしれん、分からん。けどもそれはもう遠いもの。同じというものならば、私共はですね、やはり金光大神に立脚してからの信心の進め方を極めていかなければいけんのじゃないだろうか。

 「この方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人はこの方金光大神である。金光大神の言うことに背かぬよう、よく守って」と、ね。結局、私は思うのですけれどもね、銘々の心の中に、ね、生神金光大神様がね、本当に宿ってもらわにゃならん、ね。
 言うなら寝ても覚めても金光様、昨日の御理解じゃないですけれども、ね。しかもそれが生き生きと躍動してござる。金光様、ね。私はね、天地金乃神のおかげを受けられるようになったというところなんかはね、お互いがもう少しここんところを頂かにゃ、天地金乃神のおかげを受けられるようになったということはね、ね、もう限りないもの、無尽蔵に繋がるものなんだ、ね。
 例えばお願いをする、おかげを受けた。お礼参りをしたらそれですんだといったようなもんじゃないことが分かりますね、金光様のご信心は、ね。それからが大事になっていくのです。それからが金光大神の言うことに背かぬようということになってくるのです、ね。
 そこでひとつのおかげにすがって、私共の信心が成長していくわけなんですけれども。そのおかげの受けられる信心の状態というものは絶えず動いておらなければいけない。これはね、美しいことを申します人がね、ご利益なんておかしくって、ご利益、ご利益なんていう宗教はもう宗教の堕落だと。もうそれこそ、私に言わしたらおかしくってという感じがいたします。
 信心するものがおかげなかったらもう馬鹿んごとあるじゃないか。それはもう修養道徳と同じじゃないか、ね。生きた生き生きとしたごヒレイに浴される、生き生きとした天地の親神様の限りのないお働きに、おかげに触れていかれる、ね。だからこそ、信心の値打ちというか魅力というものはあるんだと。そういう魅力に私は魅せられないという人はそれは自分というものを欺瞞しておるんだと私は思うです。
 いいや、お金はいらん、病気は治らんでんよか、働きゃあ金は儲かる。病気すりゃ医者があるからというふうにですね、まあ信心、その割り切った考え方の中には、だから信心は育つはずはないし、それじゃあもう味もさっちもそれこそ、身も蓋もないことになってくるんです、ね。私共はもうどこまでもおかげを願う、ね。けれどもそのおかげがですね、おかげのその現れ具合というか、頂き具合というものがですね、もう去年と今年とでは違った信心。金光大神はここんところを狙いとしておられるようですね、教えを頂きまして。
いわゆる初めの間は参れ拝めということである。参っただけで、拝んだだけで、ね、一生懸命お願いしただけでおかげを受ける。そういう信心が3年も5年も続いたんじゃあおかしい、ね。3年経ちよりましたら、ね、おかげで本当に改まるということを知りました。自分の生き方が間違っておることにも気が付きました、ね。変わってくるでしょうが、ね。
 初めの間はようおかげ頂きよったけれども、この頃はちっともおかげ頂けんごとなったと。というようなことをよく聞くんですけれども、それはあなたの信心がひとつも動いていないからだという、言わなければならんのです、ね。一番初めと同じで、ただ、頼むこと願うことだけじゃろう。ただ、参りよるばっかりである。毎日、日参しよりますだけじゃいかん。
 毎日の日参も拝むことも自分の心のうちを改めていくことの楽しみが、ね、またはそれを気付かせて頂くところの喜びが、毎日のお参りにもなっておるのであるというもんでなからにゃいかん、ね。次には、また今度はもうこれは限りのないものに触れていくわけですね。限りなく、ひとつ、ね、美しゅうなろうということ、ね。いわゆる磨いていこうというのである。
 教祖は信心とは本心の玉を磨くものぞやと。もう極言しておられます、極言ですね、いわゆる、ね。信心とは日々の改まりが第一と、第一であるということを改まることが第一と言うておられる、ね。信心ちゃあ、結局、本心の玉を磨いていくこと、ね。いわゆる、改まっていくこと、磨いていくこと。ですからそこには、改まって磨いていく、言うなら垢を落として、磨きをかけていく。
 ですからもう、限りなく美しゅうならんはずがない。そこで、合楽の合言葉のように言われておりますようにです、限りなく本気で美しゅうなろうじゃないかと。不思議なんですよね。こんなことに、例えばひとつの問題が起きてもですね、合楽で信心しよるもん同士ならですね、これ一つで解決するとですよ。家族なら家族にどういうトラブルがありましてもですね、いろいろ、まあ激論があり討論がありますわな。
 けれども結局、話し合っておるうちにです、本気で限りなく美しゅうなろうというところに焦点を置いたら問題は解決するとです。お互いの我情やら我欲やらが入り乱って、争いになっておるのですから。銘々が本気で限りなく美しゅうなろうということに焦点を置いたら解決する、ね。
 限りなく美しゅう、限りなくということはね、限りないおかげに繋がるということなんです。いわゆる、これは天地金乃神のおかげを受けられるようになったというのはこれのこと。天地金乃神のおかげが、ね、限りなく受けられる。そこで私共はそこに信心の焦点がだんだん、置かれていくようにならなければいけん。果たして10年信心さしてもらいよるが、その限りなく美しゅうなろうということにどれだけ進歩を見たか、ね。

 昨日、ある方がお参りをしてみえて、私は取次ぎさして頂いたら、ちょうど、まあ3つ4つぐらいな子供を連れておるらしいんですね。それでその、手を引っ張っておるわけじゃないですから子供がきょろきょろしておるもんじゃけん、もう(つれよしなわ?)ごたる。それでその、お母さんになる人が、(横見ちゃる?)前をこう後ろ見後ろ見いたしてから、着きよるじゃろうかと思うてから、そうしてそこからよちよちやって来よるわけ。ね。はあ、おったと思うてから安心して、また。一時するとまた、また付いて来よると。ね。
 子供を後ろから付いて来よる。迷い子にならんように、(つれうち?)に遭わんようにね、母親が子供に気をつけておるわけなんである、ね。時々は忘れとるごとある。子供を連れとるということが、あら、どこさ行ったじゃろうかと。それからまた、こう探しよるとまたあんなふうに後ろの方に遅れとると、ね。
 私共が金光大神を頂くということがですね、本当にその、いわゆる寝ても覚めてもとこう、言われており、またそう思うのですけれども、実を言うたら、忘れとる時が多か、ね。ある人じゃないですけども、もうせめて乗ってくる自転車だけにはもう本当に絶対お礼ばもう言うことに決めましたと。
 けど、乗る時だけは(笑)、拍手してから自転車に乗ってくる。で、そこにぽんと置いてから、上がって来て、あら手洗い場で、あら(笑)、自転車にお礼を言うとを忘れとったと。というようにですね、心がけておってもですね、忘れておる。子供がきょろきょろしとるようなもんじゃないでしょうかね。それでもやはり、親はそれを迷子にならんように、心がけておる。
 だからそういう心がけておるというところからだんだんですね、私共は金光大神がもう、心の中にですね、いつも生きてござる。というところまでその、だんだんいかにゃいけん。いわゆる寝ても覚めてもというところにならにゃいけん。やはり、修行がいる。信心が好きにならにゃいけん、ね。言うならば、その赤子が母親の懐に抱きかかえられておるようなもの、ね。
 お腹が空いてくりゃあもうそこに乳房がある、咥えればもう乳を与えて下さる、限りなく。ね。私共と神様との関係、天地の親神様との関係というか、まあ金光大神との関係というものはね、そこまでいかにゃあいけん、ね。言うならその赤子のような、私は信心、ね。親の懐の中にいつも抱きかかえられておる。
 そこに必要なものが必要に応じて頂けれる、ね、いわゆる無尽蔵のおかげに繋がるということはそういうことだ。氏子からも、神からも氏子からも両方からの恩人はこの方金光大神である。金光大神の言うことに背かぬよう、よく守ってと、ね。そこで私共の日常生活の中にですね、金光大神を忘れんように、私共のこの血に肉になってくるためにですね、それはちょうど白いご飯が多い野菜がやはり、赤い血になって、ね、その五体の中に生き生きとした、エネルギー、素に元になっていくように、ね、教えというものがいつも私共の信心の血に肉になっていくことの精進がいかに、大事かと言うことが分かる。
 第一のひとつの今日の、信心の流動を(?)でも申しましたがね。というものがです、ね、停滞するところにいかに、ご飯を頂いても野菜を頂いても、それが血にも肉にもならんで、やせ細っていくのですよね、ね。ですからいよいよ、心の健康を願わなければならんと、ね。そしてしかもその健康な心をもってです、ね、御教えがいよいよ金光大神の言うことに背かぬようと仰る金光大神の教えて下さるその御教えをです、その点ですね、三代金光様は一言にして、仰っておらることがありますですね。
 ある教師の方がおかげを、現在、まあ言うならばこれではいかん、これではいかんと、まあ気付かれた先生がですね、金光様どういう信心さして頂きましたら、よろしゅうございましょうかと言うてお伺いされた。たら、三代金光様がね、教祖様の御教えを守る他はありませんと仰ったそうです。これはもう石橋松次郎じゃない、安武松太郎じゃない、しかもそこにおりもしないものを、ね、探ったところでどこに何を得られるか、ね。
 枝の葉のようなものを頂いたところでおかげにはならん。それよりも金光大神が教えられたことをそれを身をもって行ずる以外にはない。それが血に肉になっていく以外にはない。そこに流動感がおのずと生まれてくる、ね。そこに生き生きと育ってくる。教祖様の仰ったことを守る以外にはない。それが金光教の秘訣だというふうに三代金光様が仰っておられるようにですね、金光大神が言うことに背かぬように、という信心、ね。
 そこに、私はね、だんだん、自分の心というものがです、ね、天地金乃神は言うにおよばん、金光大神助けてくれと言えば助けてやると仰るように、自分の心の中に絶えず金光様が、生き生きとして躍動しござる、ね。金光様、いつも金光様がおのずと出てくる、ね。そういう信心、そこからね、私はちょうど、乳のみ子が母親の懐に抱えられておるようにです、ね。
 限りないおかげに繋がっていけれる信心、いわゆる無尽蔵のおかげに繋がっていけれる道がそこからいよいよ頂けてくるようになる。私共の場合は、まだ言うならば3つ4つの子供を連れておる程度のぐらいなことではなかろうか。心がけてはおる。けれども(やえもすると?)迂闊になる、忘れておる。ご飯頂く時、あら、途中になってから拍手(笑)、ね、お風呂入る時も、ああ極楽極楽と言って、言いちから思い出しよるぐらいなこと、ね。
 もういつも絶えず自分の心の中に金光大神が生きてござると、ね。そこに、そういう金光様、いわゆる金光様が心から出るようなおかげを頂いた時にです、ね、天地金乃神と言うにおよばん、もうそこには天地とのつながりがです、約束されてある。天地金乃神のおかげを受けられるようになるというのはそういうことなんだと私は思う、ね。結局、結論いたしますとですね、私共がいかに信心の受け心というか、受ける姿勢というものがですね、変わっていきよらなければいけないかという、ね、去年と今年と同じであってはもういけない、ね。それを、ですから、拝まにゃ通さんというあの昆虫がおりますでしょうが、あれのお知らせを頂いてからね、一番初めは拝まにゃ通さん、まあ訳も分からんでいいけん、まあ参って来なさい。まあ一生懸命、拝みゃあ助けて下さる。もう次には拝んだだけでは通さん、次には改まらにゃ通さん。そういうひとつのシステムがある、ね。
 そこでその、改まる。もうおかげが頂ける。次にはもう改まっただけではいけん。さあ、本気で磨く気になれ。磨くことはお前の周囲に磨くという石はなんぼでもある。磨く材料はなんぼでもある。それに目をつぶっとったっちゃつまらん、ね。その問題を通していよいよ磨け、さあ本気で磨くことに限りなく美しゅうなることに心を定めさして頂いたら、おかげが生まれてきた。
 というように、そういうふうにして、そのおかげの無尽蔵のおかげに繋がっていくところの一つの過程というものがですね、私は信心のひとつの、ね、まあ流動感ということを今日は私が申しましたが、ね、信心ていうものはもう流れに流れて、限りがない。停滞するところを知らない、ね。そこに新しい、さらな喜びももちろん頂けれる、そのさらな喜びに、ね、限りないおかげが約束されることはもちろんのことである、ね。
 結局は金光大神の教えられたことに背かぬようにという信心。これをもう限りなく身に付けていく、その教えが様々な病気、または災難、ね、または人間関係、難儀という様々な難儀な様相は違うけれども、ね、それが頂けれるもとになる、ね。米やら野菜やらが、ね、青い白いがです、真っ赤な血になっていくようにです、そういう働きを私共の金光大神の教えられたその御教えというものは、そういう働きをするもの、ね。
 どうぞ皆さんの信心の過程がですよ、ただ、一生懸命に一心にお参りをさして頂いたという、言うなら人もあろう、ね。改まりの時期に入っておられる方もあろう、もう本気でひとつ限りなく全ての問題を通して、それを磨かしてもらう材料にしておられる方もあろう。そして、限りなく美しゅうなることにつながっていく信心をです、いよいよ続けていかなければならない。今日は御理解4節の中からそのようなことを頂きましたですね。どうぞ。



明渡真